他者との関係性

以前、「家族も他人」という文章を書きました。

家族も他人

漢方内科での診療をしていると、いろいろなお悩みで来院される方がいらっしゃいます。そういう方にお話をすることもけっこうあります。身体だけ元気になったら解決、とい…

さいきん、クリニックの診療でも、わりと「自分と他人の間にきっちり境界線を引きましょう」という話を繰り返し申し上げているような気がします。
これは、アドラー心理学の講座でもわりとはじめの方にやってくる作業なのだ、と聞いています。
つまり「課題の分離」のためには、自分と他人をきっちりわける、という作業が必要になるからでしょうか。

まずは課題を分離しましょう。
そうして、誰の課題なのか、を整理した上で、自分自身の悩みごとの整理がはじまる、のだと思います。

「なやみごとの解消方法」について、とある社長さんの対処方法をご紹介して書いたこともありました。

なやみごとの解消方法

ひとの体調が悪くなる、ひとつの要因に「なやみごと」が挙げられます。 もちろん、「なやみごと」の中には「身体の不調」みたいなものも含まれるでしょうから、タマゴとニ…

自分がなんとか出来ることと、自分ではなんとも出来ないこととに分類すること。
自分がなんとか出来ることだけを全て行う、というのが、その方の「悩み解消方法」だということでした。

自分にとって、どうしようもないことなのか、それとも、自分がなんとか出来ることなのか。

そこをきっちりわけることができさえすれば、あとは、「自分がなんとか出来る」部分を頑張るだけでよい、という理屈です。
実際に「自分がなんとか出来る」部分を「なんとかしてゆく」というのも大変なことですが。

ちょっと脱線しますが、野田俊作氏はかつて、ワークショップで、「大阪の水」ゲームというのをやっていたりしたのだそうです。

朝一番は「大阪の水」というゲームをした。これは、このグループの最初の設計図に入っていたゲームだ。いまは大阪の水道水はおいしいのだが、このグループができた時代には、ひどく不味かった。さて、そこでどうするか、というのが話の始まりだ。この世の課題には、自力で解決できるものと、自力では解決できないものとがある。A)自力で解決できないものに関しては、A-1)あきらめて受け入れるか、A-2)あきらめず不平を言うか、どちらかの態度が選択できる。B)自力で解決できるものに関しては、B-1)犠牲を払ってでも自力で解決するか、B-2)自力解決はあきらめて受け入れるか、B-3)自力解決はあきらめてしかも不平を言い続けるか、どれかが選択できる。この樹構造が頭にはいると、問題解決(あるいは問題不解決)が、とても容易になる。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2011/07/17.html

野田氏によると、自分でなんとか出来ない場合に「あきらめずに不平を言う」という選択肢もあるのだそうです。

なるほど。

それはそれで大変に重要な選択肢なのかもしれません。
そして、意識し、それに名前をつけることで、自分の気持ちも変化してゆくでしょう。

閑話休題。

今日は「他人」のことについてもう少ししっかり書いておこうと思ったのでした。

アドラー心理学の中では「ライフスタイル分析」というものをやります。
これは「自己概念(わたしは〜〜だ)」「世界像(世界/他者は〜〜だ)」「理想像(わたしは/世界は〜〜であるべきだ)」という三つの要素を分析していく、というものです。
この「世界像」というのが、この地球環境が、とか、太陽系が、とかではなくて、「わたし」が関わる人間の世界になります。つまり、「わたしにとって、他者がどのような存在であるか」の部分です。
たとえば「わたしが困ったときには助けてくれる」というのも、ひとつの世界像ですし、「油断をしていると攻撃されたりする」というような世界像を持っておられる方もあるかもしれません。

「他人」とひとことで言ったり、書いたりした時に、その「他人」がどのような存在であるのか。
その「他人」という対象に何を想起するのか。
このあたりを、ぜんぜん触れずに、「他人です!」と書き続けてきたわけです。

他者、あるいは他人、って、どういう対象なのか。わたしは、他者/他人に対して、どのような態度で接することが適切なのか。
理想的な関係性はどのようなものであるのだろうか。

ひとによって、このあたりが全然違う可能性があるんです。

以前も書いたかもしれませんが、(どこかで読んだ話で)自他の弁別がとてもハッキリしている方がありました。その方のお子さんが、学校で、周りの方が困るような行動をされていた、という話だったと記憶しています。

困った教職員は、お子さんの家庭訪問をして、その親御さんに、相談したのでした。
「お子さんが、学校で困った行動をされていますので、どうか、ご家庭でも、それについて、適切な行動への指導をお願いいたします」と、そのようなお願いをしたのでした。
自他の弁別がとてもハッキリしておられた、その親御さんは、「我が家は課題の分離をしていますので、それは子どもの課題です。わたしにおっしゃらず、子どもに言ってください」とお返事されたのだ、とか。

他人との距離感が遠いと、そのような理屈が成立するのかもしれません。
ただし、これは、ちょっと、どこか間違っているような気がします。

そもそも、子どもの方は、「適切な行動」をご存知なのかどうか、というあたりから、もう一度確認しても良かったのかもしれません。
適切な行動をご存知なのに、不適切とされる行動をとる理由の一端が、こうした「突き放した」ような距離の親子関係にあった…のかも、しれません。

他者とは、「自分ではない、主体をもった存在」です。

自分とは異なる思考をし、自分とは異なる選択をする。そして、わたしたちは、ヒトという生き物として集団を作ることで生存してきたわけですから、そうした「自分とは異なる」主体をお互いに尊重することで、共存をはかっているわけです。

こうした他者には、十分な敬意をはらうことが必要なのだ、とわたしは考えています。

敬意をどのようにはらうのか。
ここに主体性をどう尊重するのか、という難しい問題が出てくるのですが、こうした主体性にしても、ある年齢になったから、急に成熟する、というものではありません。日々、少しずつこうした積み重ねをすることで、主体性を育む必要がありますし、尊重し、尊重されることで育ってゆくのだと考えています。