俯瞰する視点

わたしには、何人か師匠がいます。そのひとり、精神科医のお師匠さんからも、本当にいろいろな話を聞かせて頂きました。それが、どういう形でわたしの診療に役に立っているか、ということを、言葉にして説明はしづらいのですが、はっきり区別がつく、枝葉の部分と言うよりは、むしろ、わたしの考え方の根本的な部分になっているように思います。
ある時、「俯瞰する視点があるひとは、統合失調症の治療がうまくいく」というような話を聞きました。この、「俯瞰する視点」というのは、ある種の知性の発揮である、という話でした。
統合失調症は、昔は精神分裂病と呼ばれていたのですが、幻覚や妄想を主体とした症状が出現する疾患であるとされています。
この幻覚や妄想は、本人にとってはまぎれもない事実で、場合によっては、圧倒されるような存在感があるのだろうと思いますが、これに振り回される…というか、症状と社会との分断に苦しむタイプと、それから、症状はあるのだけれど、それと社会とのあいだをなんとか取りなして、上手いこと社会生活を維持できるタイプの方がある、というような話でした。
そういえば、東山紘久先生は、昔、幻聴が「トントンせよ」と命令してくる、というクライアントさんがおられた、という話をしてくださいました。
その命令には、どうしても従わなければならないような心持ちになるのだ、というような話だったと思います。
「あなた、わたしの耳ではずーっと、耳鳴りが鳴っているんですが、この耳鳴り、聞こえますか?」と、尋ねるのだ、というような話をされていました。耳鳴りの音が、聞こえるわけはありませんが、耳鳴りなら、相手に聞こえないのが当たり前、という話が理解できても、幻聴となると…というところです。
幻聴でもなんでも、自分ひとりの経験が、唯一絶対の世界だ、という考えだと、他者との衝突が頻繁になりがちです。
自分自身の経験は経験としておいて、他の人には、他の経験があるのだ、という、やや突き放したような視点が維持できるなら、自分に襲いかかってきた症状に振り回される自分、というものも、ちょっとおかしいよね、という客観視ができるかもしれません。
以前「帰納と演繹」と題して、自分自身の経験を大事にしてゆくことも必要、という文章をブログに載せました。
個人の体験とか、経験というものはとても重要なものです。が、同時に、その経験に絡め取られすぎない、ということも重要になってきます。
それが、俯瞰する視点、ということになります。
もっぱら俯瞰する視点ばかりで、経験に没入できない、というのも、それはそれで、不感症気味になりますので、あまりお薦めできることではありません。
ちゃんとしっかり、没入するときは没入する、というのも大事なことです。
が、同時に、そうした自分を、どこか遠くから見ている、そんな視点を持っておくことも、とても重要なことだと思います。
この俯瞰する視点を持つことを、精神科医の師匠は「知性」という呼び方をしていたのでした。
これは、いわゆる知能指数で測定されているような、数値化できるものとは少し違います。むしろ、自分自身の考えや経験が、他者とは異なるものである、ということの理解、とでも言えるでしょうか。
そういえば、幼児期には、「他者の心」というものが理解できない時期がある、という話を聞いたことがあります。
たとえば…。
寸劇の中で、3つの箱が舞台に並べられています。
ピエロがやってきて、そのひとつ(仮にAの箱としましょう)に、ボールを入れて、退場します。
ピエロが居ない場面で、いたずら好きなライオンがやって来て、ピエロが入れたボールを取り出して、別の箱(仮にBの箱としましょう)にボールを入れ直します。
ライオンが隠れたところで、ピエロが戻ってきます。
さて。ピエロがボールを取り出そうと、箱に手をかけるわけですが…
この時、ピエロはどの箱をあけようとしますか?
という問いに、ある程度成長した子どもたちは、「Aの箱」と答えるわけですが、それよりも幼い子どもたちは「Bの箱」と答えるのだそうです。
なぜなら、子ども自身は、ボールが移動されたことを知っているから。
他人が、そのことを知らない可能性がある、という視点がまだ成立する前には、そのような解釈が成り立つのだそうです。
それを考えると、幻覚や妄想に苛まれている方は、わりと精神年齢が小さいところに戻って行った、と考えることもできるのかもしれません。症状が激烈であると、精神年齢が退行しても、仕方ないとも言えます。
ただ、どこかで、俯瞰する視点を持つこと、自分自身の経験や理解が、通用しない世界があるということを知っていることで、ずいぶんと社会性が高まることもある、ということは、理解していただいても良いのかもしれません。