共同体感覚と個人の権利(『モモ』より)

以前、ブログで「アイ・メッセージ」ということについて書きました。
その中で
たとえば「(公園で、戦車のラジコンカーを使っている子どもがいたときに)そのオモチャの音がうるさくて、(わたしたちが)遊ぶのに邪魔だと感じている」ということを表明したとしても、できるのは「お願いすること」までです。強制や強要はできません。
(このラジコンカーのたとえ話は、ミヒャエル・エンデの児童文学作品『モモ』の中に出てくるエピソードです。その時の登場したおとなたちも「頼むことしかできないのだよ」と言っていたはずです)
という文章を載せました。このたび、原文にあたってみたところ、わたしの記憶違いで、原文との齟齬がありましたので、訂正とともに、もとの文章をご紹介します。
「友だちの訪問と敵の訪問」
このほかにもまだ、モモによくわからないことがありました。ごくさいきん始まったばかりのことなのですが、子どもたちが、そんなものを使ってもほんとうの遊びはできないような、いろいろなおもちゃを持ってくることが多くなったのです。たとえば、遠隔操作で走らせることのできる戦車——でも、それ以上のことにはまるで役に立ちません。
(中略)
きょうはじめて来た小さな男の子が、トランジスター・ラジオを持ってきていたからです。その子はみんなからすこしはなれたところにすわって、ラジオを音量いっぱいにかけていました。なにかのコマーシャルをやっています。
「そのうるさいラジオ、もうちっと音をさげられないか?」と、フランコという名のだらしないかっこうの男の子がかみつくように言いました。
「なにを言ってるのか聞こえないよ。」とはじめての男の子は言って、にやりとしました。「ぼくのラジオの音が大きいからね。」
「すぐに音をさげろ!」とフランコはさけんで、立ちあがりました。
はじめての男の子はちょっと青くなりましたが、それでもつっかかるようにこたえました。
「ぼくにとやかく言う権利なんか、きみにはないよ。だれにもないさ。ぼくのラジオの音をどんなに大きくしようと、ぼくのかってさ。」
「それはそうだ。」と、ベッポじいさんが言いました。「あの子に禁止することはできない。せいぜいたのむことができるだけだよ。」
フランコは腰をおろしましたが、いまいましそうに言いました。
「どこかほかのところに行きゃいいんだ。あいつときたら、きょうの午後じゅう、おれたちのじゃまばかりしやがったんだ。」
「それはなにかわけがあるんだ。」とベッポはこたえて、はじめての男の子をめがねごしにまじまじと、したしみをこめてながめました。「きっとわけがある。」
(『モモ』ミヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 岩波書店)
戦車のラジコンカーも出てきましたが、子どもたちの遊びを邪魔していたのはそのラジコンカーではなくて、トランジスター・ラジオでした。訂正いたします。
さて。
権利は個人が主張できることで、相手の行動を制限したり、禁止したりすることは、本当に限られた状況でのみ、認められる、というのが理性的な社会であるわけです。
個人の権利が認められなかったり、あるいは、行動の制限が厳しかったりする時代や社会を考えると、わたしたちは、良い時代、よい社会に生きているなあ、と思います。
一方で、じゃあ、周囲に迷惑をかけていても良いのか?という話になってくるわけですが、この先にアドラー心理学で言うところの「共同体感覚」というテーマが出てくることになります。
空間的に近くにいる、その他者と、自分が、「同じ共同体」に居る、と感じられるならば、その共同体の成立・維持のために、他者への配慮という選択肢が出てくることになります。
ただし、以前も書いたように、「共同体感覚」そのものは、かなり超越的な価値観ですから、科学の中を突き詰めても、そこからは発生してきません。
科学一辺倒を重要視する社会になってしまった結果、こういう「共同体感覚」を見失っている可能性はありそうです。
『モモ』の中に出てきた新顔の少年は、ひょっとすると、まだ、集団で遊んでいる子どもたちとの「共同体」に参加できていない、という緊張や負い目のようなものがあったのかもしれません。
「共同体」を創出し、共有してゆくには、科学とか、経済活動とかを超えたなにかが必要な気がしています。そのなにか、として、野田俊作氏は、晩年、チベット仏教を請来したのだ、と聞きました。宗教というのは、科学では説明できない、超越的な価値観を言う智慧ですから、そこに共同体感覚の根拠を求めたのだろうと思います。