再び「いかりをはらう」

以前より、精神科医の師匠から学んだ「いかりをはらう」ということがとても大事なことなのだ…と、何度か繰り返し書いてきました。
先日、友人と話をしていて、「そういえば、昔のにしむら、って、ずいぶんと尖っていたし、ギラギラしていたのだけれど、その後、品が良くなったのは何故?」というようなことを訊かれました。
なるほど…といつ頃までどうだったか、を思い返してみました。
そして、きっと、このあたりではないか…と、思い当たったのが、この精神科医の師匠についた時のこと。
かなりしっかり「いかりをはらう」をやったことが、大きかったのだろうと思います。
当時、臨床をすこし離れて、大学院に戻り、研究をしていた(?)頃のことでした。大学院生のころの話を、そういえば一度ブログにも書いていましたっけ。
この時期に、精神科医の師匠が、近くの大学で講義を担当されていて、かつ、社会人の聴講歓迎、ということだったので、ずいぶんと詰めて通ったものでした。
相前後する形で、フィリピンで医療支援をされていた助産師、冨田江里子さんとのご縁をつないで頂いたのも、大学院生の時期でした。こちらもずいぶんと興味深い、不思議な経験をさせていただきましたが、現地でもこの「いかりをはらう」という姿勢が一貫できたことが、かなり大きく影響していたのだろうと思います。
こちらの記事でも書いていますが、地下鉄に乗っていた時に、自分の中に生じた怒りを観察した経験は、かなり自分の中で愕然とするような驚きがありました。
社会正義とか、道義とか、そういう理屈で自分自身の怒りを正当化することは、いくらでも可能です。ですが、そういう「理屈」以前に、自分が腹を立てる事情があるのだ…ということをきちんと認識することがとても重要なことなのだ、と思い至ったのは、本当に大きな変化だったのだろうと思います。
社会正義を振りかざしている時には、こうした「はじめの一歩」について、忘れがちになります。そして、忘れてしまったはじめの一歩を置き去りにして、理屈や理論が優先されはじめると、いわゆる「原理主義」的な話になるわけです。
原理主義的に世界を見ると、許しがたい物事はたくさんあります。ですが、それらに怒りの炎を燃やすのではなくて、なぜ、そのような原理主義的な思想を、自分が選ぼうと思ったのか、その動機になった個別のエピソードを見つめることで、自分自身の中にある、もっと根源的な欲動を掘り出すことができたなら、意外と、大きな怒りを抱えなくても生きていけるようになるのかもしれません。













