善き友

善き友のことを「善友(ぜんゆう)」と言うのだそうです。
同じ志をもって、同じ方向に進もうとしている仲間のことです。

精神科医の師匠のところで、あらためて学びはじめた時、わたしだけではなくて、他にも数名の「モグリ」の講義参加者がありました。そして、師匠のいう「怒りをはらう」ということを、日々実践する、という中で、同士となったわけです。

そんな講義の時に、師匠が「仲間」についてのことを話されました。

お釈迦様に「もし、同じ仏道を志す仲間を得たら、それは悟りへの道のりの、半分くらい、進んだ…ってことで良いですかねえ?」とお弟子のどなたかが尋ねられたのだそうです。

お釈迦様の返事は「とんでもない!」というものでした。

(やっべ…やっぱりそんなに甘くない…?)って焦りながら、お弟子さまが唖然としていたら、お釈迦様は「善友を得たなら、修行の9割が済んだも同然だ!」とおっしゃったのだそうです。

同じ志をもって、同じ道を歩く仲間がいる、というのは、どれほどに心強いことでしょうか。

アドラー心理学では「勇気づけの方法」というのを時々言います。

英語では「encouragement」なのだろうと思いますが、この日本語「勇気づける」っていうのが、いかにも翻訳しました!という感じが強い。導入された先生が、どうにも、翻訳が難しい、と悩まれたのだろうと思います。

この反対になるのが「勇気くじき」と呼ばれる行為です。「discouragement」だと思われますが、こちらはさらに翻訳が苦しいなあ…と思います。勇気って何だよ、ってなりますもんねえ。

言い換えるなら「足を引っ張る」ということでしょうか。

やるぞ!って決心をしたひとに水を差すようなことを言ったり、やったり。決心を邪魔する、とか行動をしないように唆す、とか、あるいは諦める方向に誘導する、とか。そういう意味で、「勇気くじき」という言葉を使っているのだろうと思います。

もちろん、修行しているときに、そういう「勇気くじき」に、しばしば出会うものです。そして、くじかれても、くじかれても、その度に、立ち直ることを繰り返して、そのうち修行が進むと「不退転」の心境に至るわけですが、それまでは本当に幾度となく、気持ちをくじかれるわけです。

とはいえ、実際に小さい勇気を出すときに、大きな「勇気くじき」に出会ってしまっては、大変です。

あたかも、滝で修行をする…となった初心者が、いきなりナイアガラの滝に打たれる…みたいな話になりかねません。修行よりもなによりも、その勢いに流されてしまうだけ…になってしまいそうです。

なので、勇気くじきも、加減が必要です。いきなり本丸の大ボスに突撃してはいけません。

志をもって、頑張る時に、それを冷やかしたり、馬鹿にしたり、あるいはそれに対して理不尽に怒ってみたり…ということがあるとなかなか、その先に進めなくなります。

できたら、そういう「勇気をくじく」ひとからは離れて、同志との修行に励んでいただきたいところです…。が、離れづらいのが家族です。

お釈迦様は、こどもに「ラーフラ」(あるいはラゴラ)と名付けられました。これは「邪魔になるもの」というような意味があるのだそうです。邪魔になる、ってそんな、可愛い子供にそんな名前をつけるなんて…って思いますが、お釈迦様としては、もともと出家されるのが既定路線でいらっしゃったのだとか。ですので、こどもが生まれて、そのこどもに愛着を感じてしまうと、出家の妨げになりそうだ…ということを名前にされた、という説があるのだとか。

なかなか、お釈迦様でも、家族の縁はすっぱりとは絶ちきれないわけですから、凡人のわたしたちには、とても難しいこと、なのでしょう。

どうか、ご家族の方にも、勇気づけをしてください、とまで多くを望みはしませんが、せめて、あまりにも大きな勇気くじきをなさることは、やめていただけたら…と、そんなことを、診療している時に思うことがあります。

診療の中では、どうしてもご家族にまでは手が届かないのですけれど。

どうぞ、善い道を歩こうとされている方々に、善き友人が得られますことを祈ってやみません。