寿限無と名前

わたしは落語が好きで、結構いろいろな小咄なんかを聞いていました。

そんな落語の題材のひとつ、けっこう有名なものとして「寿限無」というのがあります。NHKの「にほんごであそぼ」でも取り上げられましたから、落語をご存じでない方も、じゅげむ、だけはご存じなのかもしれません。

寿限無、寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の、水行末・雲来末・風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E9%99%90%E7%84%A1

これが全部「一人のひとの名前」なのですから、いろいろと恐れ入ります。いや、それだけ、親が名前に思い入れがあったのかもしれません。

名前をつける、とか、改名・襲名する、ということには、呪術的な意味合いが、いまだにあるのではないか、と思います。

アーシュラ・K・ル=グウィンは『ゲド戦記』と呼ばれるファンタジーの小説を書いておられますが、その世界では「まことの名前」というのがとても大きな力を持っています。第一作の『影との戦い』では、名前を持たない異形=影を呼び込んでしまった主人公が、その影と向き合い、それに名前を与えることがテーマになっています。

そういえば、宮崎駿氏の映画『千と千尋の神隠し』でも、「千尋」の名前が取り上げられて、「千」しか残らない、というのがある種の呪いであったように描かれています。

名は体を表すと言いますが、名前にどこか、本質が出てくる、ということもあるのかもしれません。
名前をつける、というのは、わりと大事なことなのだろうと思います。

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という川柳もあります。幽霊のような、恐怖を引き起こすようなものは、きっと、名前がつかないことの恐怖が大きくて、枯れたススキだと名付けられる…正体がわかると、怖さが消えるということなのかもしれません。

そういえば、幽霊の話でも、毎日、同じ刻限に、同じことをやる、となると、恐怖ではなくて、見世物になる、という落語もありました。

「お菊の皿」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E8%8F%8A%E3%81%AE%E7%9A%BF

名前がつけられて、不定形のものに輪郭が与えられると、不定形のままではいられなくなります。不定であったために不安や恐怖の対象となっていたモノは、形が決まった途端に、別のなにものかに変わってしまうのかもしれません。

わたしの臨床では、身体から読み解けるもろもろの緊張に、名前をつける、ということをやっていたりします。毎回うまいこと名付けができるというわけではありませんが、上手に名前をつけることができると、その緊張そのもののあり方が変わります。言葉が持っているイメージの力は、けっこう大きいのだなあ、と感心する経験です。

そういえば、精神科医の師匠が、法語として「これもまた過ぎ去る」というのを教えてくれていました。諸行無常ですから、どのようなものも、永久には続きません。楽しいこと、良いこともそうですが、しんどい、つらい事もまた、過ぎ去っていきます。

「これもまた過ぎ去る」というのも、ひとつの「名付け」になるのかもしれません。