山中康裕先生との思い出
山中康裕先生とのご縁は、私が医学部に入ってから、ということになるのですが、たまたま知り合った学部の先輩が、教育学部、臨床心理学の山中先生のところで月に1回の読書会をしている、ということでお誘いを頂いたのでした。
ちょうど臨床心理学の勉強をちょこちょこやっていたところでもあり、あの河合隼雄氏のお弟子さんでいらっしゃる、ということもお聞きしていたところだったと思います。
ご紹介してくださった先輩はまもなく卒業されたのですが、私はそこから5年くらい、毎月の読書会に参加していた、のだったと思います。
読書会は、英語の文献を少しずつ、日本語に翻訳しながら読んでいく、という集まりで、毎回の分担を決めては、それぞれ翻訳していく、ということをやっていました。
当時そうやって読んでいた本は、その後体裁を整えて出版されました(今は版元品切れになっていますが…)ので、ある種「下訳」をみんなでやっていた、ということだったのだろうと思います。
そのご縁で、先生の還暦記念の論考集や退職記念の論考集に原稿を書かせていただいたり、あるいは、翻訳(共訳)のお仕事をお声かけいただいたりしました。
翻訳の方は、ちょこっとだけ印税を頂いたりして、これが印税っていうものなのか!って感激したりもしたものでした。もともと大人数でよってたかっての翻訳でしたので、私が頂いた印税は、翻訳した本を1冊買ったら、ちょっとお釣りを頂ける、程度の金額だったと記憶しています。
山中先生は、博覧強記の方で、ご自宅の書斎には壁一面に本棚があったのですが、とうていそこだけでは入らないくらいの本をお持ちで、前後2段ないし、3段に本を並べておられました。当時「ちょっと全部は覚えていられなくなってきたのだよねえ」とおっしゃっていたのですが、それまでは、壁一面の書棚の蔵書をどこに何の本があるか、全部記憶されていたのだそうで、本当にすごいなあ、と思ったことでした。
読書会の合宿なんかあると、「連歌をしよう」とお誘いいただき、皆でうんうんうなりながら、連歌をしたり、あるいは、先生の日記帳を拝見したりしたものでした。本当に多芸多才というのは、こういう方のことを言うのだろうなあ、と思いましたが、先生の一番初期のお仕事が、精神科の病棟で、患者さんに絵を描いてもらう、という形の芸術療法だった、というのは、先生のお人柄を示唆しているのだろうと思います。
そういえば、「対象者を選ぶ時に、3つのグループを作った」っていうお話を嬉しそうになさっていました。
一つ目のグループは「カルテの記述量が少ない(…つまり長年、状態の変化がほとんどない、という)患者さん」だったと思います。二つ目のグループは「看護師さんの投票で票数が多かった患者さん」ということでした。これはひとりに複数の票をもってもらって、「対応に困った患者さん」に投票してもらう、という形だった、ということでした。最後のグループは、「これは簡単。絵を描きたい、って手を挙げた患者さんのグループ」だったそうです。
この中で、劇的に状況が変化された方があって、という話は先生の著作にも何度か出てきていると思います。絵を描き、それについて面談することで、これだけ人は変わるのか、というような話を、いくつかの記録と、当時の写真とともに、しばしばお話を頂いたものでした。