師匠えらび・主治医えらび

「三年学ぶよりも、三年師を探せ」ということわざがあるのだそうです。
それだけ、良い師を探すことは大事で、それをせずに自分ひとりで努力していると、努力の方向を間違うとか、妙な癖がつくとか、肝心な点をきっちりおさえられずに進んでしまうとか、いろいろと心配なことがあります。多少学び始めるのが遅くなっても、良い師について、ちゃんとした指導を受ける方が、はるかに良い、ということのようです。
教育や研究の領域の話題になると、自分で学ぶことも大変ですが、後輩や若手に学ばせること、というのもかなり大変なことだと言われています。
「馬を水場まで連れてくることはできるが、水を(強制的に)のませることはできない」というようなことわざもありました。
新しいことを学ぶ、学ぼうとする、ということはとても重要な芽ですが、まわりでヤキモキしてみても、他人が思ったようには伸びていない、というのも事実です。
「いま、伸びつつある力だけが伸びる」と整体の先生も書き残しておられますが、何が伸びつつあるのか、を見極めるのが難しいわけで、気づいたら、伸びかかっていた芽を潰してしまったりするわけです。
…そういえば、わたしの母は、わたしが幼稚園に通いはじめた頃に、担任の先生が「この子はとてもユニークで…その芽を潰してしまわないかと…」と保護者面談?で相談してくださったそうなのですが、その時に「その程度で潰れる芽なら、潰してしまって下さい!」と即答した、と言ってました。なんてスパルタ…(当時のわが家は、経済的にもきびしかったらしく、大事にしないと育てられない芽などにかまけている余裕がなかった、というのが実情だったようです)。
それはさておき。学校など、集団教育での教育者の悩みは、学習する当事者か自分で望まなければ、習得させられない、あるいは教え込めない、という問題もありますが、それにとどまらなくなっています。学習の「モチベーション」に、個人の興味に加えて、経済の論理が混ざってくるようになりました。資本主義経済・自由主義経済の中で、経済的なメリットを「エサ」にして、ひとの動きをコントロールしよう、という政策があります。メリトクラシーとも呼ばれるわけですが、「お金が儲かるからこれをしよう」などという、外的要因による行動の決定に繋がってゆきます。
メリトクラシーが骨身に染みこんでいる学生は「この学問をすると、どのような『良いこと』があるのですか?」と、事前に訊いてくることもあるのだそうです。その『良いこと』が学ぶ手間に見あったものなのか…?ということを事前に計量することで、「コスパ」の良い学びを積み重ねることができる、と考えているのかも知れません。
ところで、教育の話で、しばしば言われることでもあり、また、良質の読書でも似たようなことが起こるのですが、教育を経験する、あるいは本を一冊読むことで、自分自身がその前とは別の自分になっている、ということがあります。
教育の前、あるいは読書の前には、とうてい想像もつかなかった視座を得る。そのような変化が起こるのだ、ということを、では、事前に情報として得ていたとしたら、それは『良いこと』として計上されただろうか?という疑問については、多くの方が「そうではなかっただろう」という返事をしておられるようです。
それだけ、自分が変わっていく、という経験はすごい。事前に説明されていても、それを良いとは感じられないけれど、プロセスを経て、自分が変わっていくことが喜びになる、ということがあります。
師をいただくということも、似たようなものがあります。たいていの場合は、本を読む、ということよりも、自分の人生が変わっていく度合いは大きいでしょう。
この師についていく、と、決める時には、その先にある『良いこと』のありようを想像することもできない、というのが学ぶ時や、師をいただく時に共通した特徴ですし、自分が不可逆的に変わっていく、ということはいわば、前の自分が消失する、ということにもなります。
そのような、師を、じゃあ、どうやって選ぶことができるのか?っていうのが、やっぱり難しくて、だからこそ「三年師を探せ」という言葉になるわけです。
ですが、師匠を選ぶ時って、理屈とか、メリット・デメリットとか、あるいはコストパフォーマンスとかの、通常の価値判断では無理なのです。
一度、エイヤッと、跳ぶしかない。
今までの地平とは断絶している、別の地平まで、跳躍することになるのです。
ある意味、命がけの跳躍です。
「いや、命かけて跳んでみたけれど、違った…?って話にならないんですか?」ってことがどうしても気になる人には、跳躍は無理なわけで、そのリスクなんかも込みで、それでも跳ぶ、って決断ができたときにだけ、成立する関係性が、師、というものにはあるのだと思います。
どうやって師を選ぶのさ?とか、どうやってその師に出会うのさ?とか、疑問はいっぱいあります。わたしの場合は「ご縁」としか言いようがありませんでしたが。
現代人にとっては、自分がコントロールできる、という状況を超えて、跳躍するのは、とても怖いことなのかもしれません。自分の中の大事なものをどこかで手放して、委ねる、ような行為です。
そういうことを考えると、かかる医者を決める、というのも、どこか似ているのかもしれません。エイヤッと、受診する。その受診した先の先生が良い先生でありますように、とは思いますが、なかなか、判断をする材料も多くありませんから…。
どうか、良い医師を選んで、かかりつけにしていただきたいものです。