成人の日によせて
新成人のみなさん、おめでとうございます。
…と書くわけですが、わたしも小さい頃は、はやく大きくなりたかった、というような記憶があります。大人になったら、いろいろとできるようになることが増えるのだ、と。
大人になってから、それなりの年数を過ごしてきたつもりですが、じゃあ、振り返って、「大人になった」ということを自分自身で引き受けた、というか、自覚した、というのは何時のことだったろうか、と考え始めると…これまたよくわかりません。
お酒の味が楽しめるようになったとき…?
選挙権を行使するようになったとき…?
成人式に行ったとき…?
そういえばわたしは、成人式、自発的に不参加でした。地元を離れていましたし、京都市は参加するのに事前申し込みが必要だったとか、そんな話だったと思います。
こどもが生まれた時に「大人になった」と思ったか?
…というと、これもあやしいです。こどもが小さい頃に一緒に写っている写真を見ると、まだまだ「幼い」顔つきが抜けて折らず、どう見ても子どもが子育てしている、ように見えてしまったりします。
なかなか、現代社会では「大人になる」ということが難しくなってきているのかも知れません。わたしの父の古い卒業アルバムを見たら、中学生が、本当にオジさんっぽい顔をしていました。老化して見えるのは、当時の感染症の影響なのだ、とおっしゃる方もあります。もろもろの苦労などが表に出てきているのかもしれません。若い、あるいは幼い顔立ちのままで年齢を重ねられるだけ、人生が楽になった、ということであれば、むしろ喜ぶべきことなのでしょう。
昔は14歳で元服だった、と、父は、しばしばそんな言い方をしていました。いや父だって、昭和の生まれですから、江戸時代の、14歳の元服を自分の目で見てきた世代でもなんでもありませんが。
14歳の元服の時に、武家だと、切腹のお作法を学ぶのだそうです。「責任の取り方」を自分のものとして引き受ける、ということでしょうか。
責任の取り方、って、じつはとっても難しい。
アドラー心理学を日本に導入した先駆者だった、野田俊作氏は、その著作の中で「失敗したときの責任の取り方」について書いています。
それは、3つの要素からなるのだそうで、一つ目は「原状を回復すること」。二つ目は「再発を防止すること」そして三つ目は「謝ること」なのだそうです。
(野田俊作著『アドラー心理学を語る3劣等感と人間関係』創元社149頁〜)
原状の回復、って、必ずできることばかりではありません。覆水盆に返らず、ですから、できないこともあります。なるべくなら、取り返しのつかない損失は避けたいところですが、全てにおいて、取り返せること、ではありません。
再発の防止、というのも、万人が認める、となると、難しいのかもしれません。
そして、被害を受けた人が満足する形の謝罪、というのも、結構むずかしいものがあります。
もちろん、それ以上のことを「責任」として求めるひともいらっしゃることがあるでしょうけれど、この指針は、参照する基準としては、とても良いものだと思いますので、成人…?もしくは二十歳を祝う日の、馬のはなむけとして、大人になった皆様にお贈りすることにいたします。