本末転倒

漢字のなりたちを見ると、本は「木」の下の方に線が入った文字、ということになっています。つまり「ねもと」だという意味です。
末は、逆に「木」の上に線が入った文字です。
東、というのは、木の向こう側から日が昇ってくることの象形だそうですが、なかなか、いろいろと工夫して漢字を作ったのだろうと思います。
本と末、というのは、まあ、生えている木を見れば、明らかです。
ところが、製材にしてしまうと、微妙にわかりづらくなるのだとか。
「製材された柱の、本と末が見分けられるように、というのが大工としての最初の訓練だった」と聞いたことがあります。
法隆寺などを修復した西岡常一さん、という方は、お寺を建てるには、木を買う、ではいけない。山ごと買うのだ、と書いておられました。
山を買って、南側に生えている木を、お寺の南面に、北側に生えている木を北面に使う、というように、生きていた時と同じような向きで使うのが良いのだ、という話でした。
つまり、製材しても、根元を下に、末を上にして柱として建てるのが良いのだということです。
まれに、上下逆になっている施工があるようで、それはずいぶんと気持ち悪い部屋ができあがるのだ…という話も聞いたことがあります。
そんな「本末転倒」。
今では、もともと大事にするべきことをおろそかにして、枝葉末節のような、どうなってもかまわない話を重要視する、というような意味合いで用いられます。
もともとは鎌倉時代にお寺の「本寺」「末寺」の力関係が逆転した、というところから出てきたようです。末寺の方が、信者さん?とか檀家さんが多くなって、力を蓄えるようになって…、ということだったみたいです。
ひとが生きていると、こうした「本末転倒」はあちこちに見られます。
たとえば、食事の話。
「うま味」「塩味」「油」そして「糖分」というのは、とても美味しいわけです。
ですから、ひとはそれを求めます。
そもそも、何故、こうした成分を「美味しい」と感じるようになったか、というと、それらが生命体としての生存に必要であり、一方で、入手しづらいものであったから、ということになります。
つまり、少しでもそれに近づく努力をした時には、ご褒美として「おいしい」という感覚が出てくるようにしたわけです。
その結果、糖分や塩味、あるいは油を過剰に摂取する、ということによる健康被害が発生するに至りました。
生存のために用いたシステムがハックされて、ただひたすら「報酬」だけが引き出される…その結果、過食となり、肥満やメタボリックシンドロームの発生につながるような可能性だって指摘されています。
逆に、「健康のためなら死んでも構わない」的な言説も時々見聞きします。これまた、本末転倒がすごい。
ついつい、人間はそのように、最終的な目標を忘れてしまいがちです。
気持ちが忙しくなったときには、本来の目標がなんだったのか?ということを、あらためて見つめ直すことも大事なのかもしれません。











