東洋医学的なツボのはなし

先日のツボの話はルビンの壺の繋がりでしたが、今日は漢方内科クリニックに関係の深い、東洋医学的なツボの話をしようと思います。

ツボとは何か?っていう話を真正面から考えようとすると、これはまた結構むずかしいのです。昔『医道の日本』という、鍼灸師さん向けの雑誌がありました(紙の定期刊行物はなくなりましたが、Webサイト上では今でもいろいろな情報発信をされています)。この雑誌の特集でいちど「ツボとは何か?」をテーマにされたことがありました。たくさんの方が文章を寄せておられたのですが、まあ本当に答え方も千差万別で、なるほど、こういう書き方もあるのか、と感心した覚えがあります。

おおまじめに、ツボとは何か、って説明をするためには、東洋医学的な人体ってのが、どう成立しているのか、って話をしなければならない気がしてきました。

ちょっと脱線しますが、数学の分野の中に「数学基礎論」っていうのがあるんだそうです。これは「基礎的な数学」の話、ではなくて、わたしたちが普段議論している数学の、その基礎になっている部分をどう考えたら良いのか、という深淵なテーマを取り扱った分野、ということらしいです。笑い話的な話として聞いたのですが、分厚い本の真ん中くらいになって「…以上のことから、1たす1が2であることが導き出される…」という一文が入っているのだ、ということでした。

ツボの話をおおまじめにしていくと、そんな遠大な話になりかねないわけです。なので、皆さん、その辺は措いておいて、「1たす1は…」的な部分の話をされるのでしょう。

…ということで、わたしもツボそのものの話はちょっと避けておきます。

ひとの身体というのには、やっぱり筋道があったり、なかったりするわけで、その結節点的なものを「ツボ」と呼んだのだろうと思います。何かの機会に、そこを押さえることで、症状が軽くなったとか、あるいは、体調の変化を実感したとか。

そういうことの積み重ねで、どこか特別にその「点」が積み重なったものを、ツボ、と呼ぶのだろうと思っています。厳密には、ひとによって、そのひとの体調によっても、多少はずれているのが「正しい」のだと思います。

なので、診療でツボを用いる時には、ちゃんと確認しなければならないわけです。どうやって確認するのか、と訊かれると、触れるとわかる…って話をするわけですが、じゃあ触れると、どうしてわかるのか?ってところがまた謎だったりします。

もちろん、誰にでもわかる、というわけでもなさそうですから、治療家の養成をするときには、それが分かる生徒さんと、分からない生徒さんがおられる、ってことになりそうです。分かる生徒さんはどんどん進んでいくこともできそうですが、分からない生徒さんが分かるように、って部分が一番教育としては肝心というか、むずかしいところなのだろうと思います。

これは、ツボだけじゃなくて、「気」の話も似たようなことになるわけですが、気の方がまた茫洋としてつかみづらいのかもしれません。

ツボは現在、WHOによって統一された名称と位置が決められましたので、一応、それを覚えることが必要になってくるわけです。実際にそこを使うかどうか、っていうのは、また臨床での話になります。

ツボの解剖学的な根拠ってのは、ありそう…なのですが、全てのツボに同じように根拠がある、というわけではなかったりしますから、そういう意味で、全てのツボに解剖学的な根拠がある、とは言えないわけです。じゃあ、解剖学的な根拠っぽい物言いができるツボは、その説明で良いのか?ってことにもなります。

この辺がむずかしいところですが、歴史の積み重ねがそこのツボに意味があったことを示しているわけで、解剖学ではない、ひとの身体のなにか、があるのだろうと思いますし、実際にそういうツボを通して、ひとの身体は変化していくことがあるのだ、とご承知ください、っていうくらいがちょうど良い気がしています。