流れを整える

ボディーワークなどの指導を受けていると、時々「自然な状態で…」というような指示が出ることがあります。
ざっと、力を強く入れているわけでもないし、抜きすぎているわけでもない、というような状態…と考えるのですが、いやそもそも「自然な状態、とは一体どのような…?」と考え始めると、これはこれでけっこう難しい。
ミカン山は自然な状態なのでしょうか?
一度伐採があったあと、放置されている状態は自然なのでしょうか?
明治神宮の森は、あれは植林ですが、それでもわりと「自然」っぽい感じがあります。ああいうのは?
すごく雑な表現をすると、「完全にヒトの手が入っていない自然」というのがひとつ、ある…と勝手に考えましょう。原生林と呼ばれる場所は、まあ、そういう場所だ、と考えます。
そういうところはきっと、「自然」なんだろうと思います。
最近は、オオカミが絶滅したあと、シカがすごく増えて、下草を全部食べてしまうとか、木の樹皮や新芽も食べてしまうから、植生が貧弱になっている、というような話も聞きました。オオカミが居なくなった原生林に、シカが増殖しているのは…?これは自然なのでしょうか?
一方で、里山は、ある程度ヒトの手が入らないと、今の状況が維持できない、ということになっています。
江戸時代は薪炭材の採取で、里山はハゲ山になっていたそうですから、まあそんな場所に木が植わっているのは、明治以降、っていうことになるのかもしれません。自然と呼ぶにはあまりにも歴史が浅い…のでしょうか。
手が入らないから自然だ、と言う判断は、とてもわかりやすい基準ではあります。たしかに数百年、ヒトの手が入らなければ、それは「自然」なのかもしれません。
その「自然」がヒトにとって望ましい環境になっているかどうか、はまた別の話になりそうです。放置された結果、砂漠になっている、ということだってありそうですし。
ひとさまの身体を診ているのが、わたしの仕事の一部ですが、身体を調整するときに、なんとなく、自然な状態、というのに近いようなことを考えている気がします。無理や無駄のない身体の状態。りきみが取れた状態。では「自然な状態」を目指すと言うのか?と訊かれると、うーん。ちょっと違う気がします。
それよりは、流れを整える、という方がしっくりきます。
できるだけ、無理のない、自然な流れが成立するように、たとえば、川の流れに引っかかっている枝を取り除く、とか、流れの邪魔をしている石を少しずらしてみる、とか、そういう雰囲気に近いのだろうと思います。
もちろん、ひとの生命の流れに対してだって、外的な影響力を使って、ダムみたいなものを造ってみたり、灌漑工事みたいなことをしてみたり、ということもできるのかもしれません。
野口整体の野口晴哉氏は、かつて、催眠術の研究をなさっていたのだそうです。催眠術をかけることは、いわば、ひとの流れを変えてしまう、ということなのかもしれません。実際、そういう健康法もあったのだ、と書いておられます。
ただし、野口氏ご自身はその道をおとりにはなりませんでした。
むしろ、「ひとは気づかないうちに、いくつもの催眠にかかっている。だから、その催眠から覚めるような指導をしているのだ」と、そのようなことを書き残しておられます。
わたしの仕事を、かように偉大な方と比べるのも変な話です。そもそも、そんな大きな変化を引き起こすのは、大変なことですし。
とはいえ、この「自分にかかっている催眠を外してゆく」ということを、川の流れのあちこちにひっかかった柵のような木の枝であると考えられるならば、そういうものを取り除いて、素直な流れを取り戻してゆくことは、大きな意味では、同じような方向にあるのかもしれない、と考えています。
流れを整理してゆくことができても、その流れの行き先を変えるわけではありませんので、できることには限りがあります。それでも、まあ、ここから先の流れが、スムーズになることで、人生が多少なり、楽になって頂けたら、と思うわけで、日々の施術で、そんなことを考えつつ、調整をしているところです。