濁点の有無

世の中は、澄むと濁るで大違い…

という戯れ歌があります。濁点がつくか、つかないかで意味がぜんぜん違ってくる、という話です。

この下の句はいくつかあるようですが、一つは「はけに毛があり、ハゲに毛がなし」というものです。たしかに濁点ひとつで、大違いですねえ。

もうひとつは「福に徳あり、フグに毒あり」というのがあります。上手いこと詠んだものだなあ、と思います。

韓国語には濁音が無いのだ、とか、「茨城」も「茨木」も「いばらき」と濁らないのだ、とか、そういう話を聞いたことがあります。その割に、北関東の方は、濁点をつけない「き」を、あたかも「ギ」のように発音される、というところも、不思議な話だなあ、と思って聞いていますが。

濁点ひとつで意味が変わる、ということわざに「果報は寝て待て」というのがあります。

良い結果が出てくるかどうか、というのは、ひとがヤキモキしても仕方ないものだから、開き直って、寝てしまうくらいがちょうど良い、という意味、だそうです。

ところが、世の中には、これは「寝て待て」ではなくて、「寝で待て」だ、とおっしゃる方があるのだそうです。寝で…つまり寝ないで待て、と。

ええええ?まるっきり反対の意味になってしまってません?

もうひとつことわざの話をしますと、「住めば都」ということわざにも、似たような「逆の言葉」があるんですって。

「住めば都」は、「どのような地方に住んでも、そこに住みなして、都のような居心地をつくるもので、どこに行ってもよいのだ」という意味です。

ところが、世の中には、まあそうもいうのだけれど…と混ぜっ返す方があるのだそうです。「住まば都」なのだ、と。つまり、どうせ生活するなら、そりゃぜひ、都に住むのがお薦めだ、とこういう意味なのだそうです。

いったいどっちが正しいのか…という話ではなくて、言葉の意味が、小さいところの文字ひとつで、まるで逆になってくる、というところがとても興味深い話です。

ひとの言葉というのは、逆の意味が、似たような言葉に入っている、というのが、わりとよくあることなのだ…と聞いたことがあります。英語でWithというのは、「ともに」「一緒にある」というような意味の前置詞ですが、それによく似たWithoutというのは、「それ無しで」という意味になります。古い時代は、これらの区別が文字表現としては「無かった」ということらしい、というような話を読んだことがあります。

そんな両極端の意味が、同じ単語なの?ってところも疑問がわくところですけれど、ひとの営みというのは、そのように、逆の意味をどこか近くに持っている、というのが普通のこと、なのかもしれません。