痛みは測ることができない
昔、「痛みの単位を発明した」というジョーク記事が出たことがありました。
ジョークの内容
国際標準化機構 (ISO) によって、人間の痛みの感じ方についての統一単位「ハナゲ」(hanage) が制定され、「長さ1センチの鼻毛を鉛直方向に1ニュートンの力で引っ張り、抜いたときに感じる痛み」が「1ハナゲ」と定義された、とするものである。鼻毛を抜いた時の痛みには性差や個人差はないことが発見されたため、ハナゲが痛みの単位に選ばれたとされる。
スイスのダヴォス・プラッツで開催された世界知覚認識学会で認定されたというものもある。
今調べてみたら、1998年から1999年のことだったようですから、もう、四半世紀も前の話題になってしまいました。
ハナゲっていう単位の命名が話題になった、というところもありそうですし、鼻毛を抜くのが痛いよねえ…という話にもなるのかもしれません。
これがジョーク記事である、と、わりとさっさと片付けられるくらいには、痛みというのは、客観的な尺度がありません。
VAS(ビジュアルアナログスケール)というものがあって「あなたの思う、最大級に痛い状態を10として、今どのくらい痛みますか?」という質問がわりと使われますが、他の人と比べてどうこう、という話にはなりません。
痛みだけじゃなくて、「しんどい」という感じがあるとき、このしんどさも、共有することはできません。
なので「階段って、あがるの、けっこう大変だよね」という会話の中の「階段」のサイズ感が無いまま、人によっては、段差が20cmくらいの階段の話をしている一方で、しんどいと感じている方には、それが1mくらいの段差の階段だったりすること、っていうのも結構ありそうです。
「いや、大変だけれど、頑張ったら上がれるよね?だから頑張りなよ」って返事をするときの「大変さ」とか「頑張り具合」とかも見えません。階段の段差があからさまに違っているなら、まだ話は分かりやすいのですが、目に見えない「しんどさ」っていうのは、これは本当に客観的に評価できないわけです。
とはいえ、身体にはしんどさが出てきます。客観性はありませんが、しんどい思いをずっとしてきた方は、やはりしんどかった身体になっておられるわけで、それを読むと、やっぱり頑張ってきたんだなあ、って声が出てきます。
わりと最近は、しんどい、という方を大事にしてくださる文化も増えて来たようなので、あまり皆さん、無理をされずに、しんどい、というのを発信して、早めに休養を取ったり、あるいはしんどい作業を回避したり、ということが当たり前の社会にしてゆきたいものです。