真善美
古代ギリシアの哲学では、その追い求める先が「真・善・美」であった、という話を聞いたことがあります。
真…真なること。正しいこと。
善…善なること。良いこと。
美…美しいこと。
これらのうち、「真実」を追い求める、という思想は、わりと共有しやすいのかもしれない、と思います。
「科学的真実」みたいな話になるのでしょうか。
現代における「科学」を「哲学」の中の一部分であると考えるなら、古代ギリシア以来、いまだに哲学は、この「真実」を追いかけ続けている、と言えるかも知れません。
「善いこと」を追い求める、という姿勢の学問は、それは「倫理学」になってきたのだろうか、と思います。
もちろん、倫理学的な問いの中に「善とはなにか」みたいな根本的な問いも出てくるでしょう。
このあたりも「哲学」の一部が頑張って追いかけている、というように思います。
「美」について、これは「美学」という分野が哲学の中にあるんだそうです。
美学(びがく、英: aesthetics、またæsthetics、esthetics、エスセティクス、エステティクス、希: Αισθητική)は、美の原理などを研究する学問であり、18世紀に成立したとされる哲学の一分野である。
おおお。エステティックスですか!これはつまり、お肌をきれいに…というやつですね!
と言いたくなるのですが、ちょっと違います。お肌の美容、という意味で、エステティックス、という単語をお使いになることっも多く、あながち間違いではないのでしょう。学問の成立としては、18世紀なのだそうです。古代ギリシアから考えると、意外と最近なのだな、と感じました。
今回、この話題について書こうと思って、グーグル先生に相談した(『真善美』ってどんな感じで扱われているの?ってな感じで訊きました)ところ、京都大学の入学式の挨拶文がでてきました。当時の総長が「真善美」について語っておられた原稿のようです。いちぶ引用します。
最近あまり言われなくなりましたが、「真善美」という言葉があります。正しいことを知り、正しいことを行う、これが真であり、大学の使命の第一は学生諸君にこの真に到る道をいろいろと教えることであります。しかし、社会を生きてゆく上において真だけでは十分ではありません。善という観点が必要となります。善には価値という視点が加わります。善は美とともにギリシャ以来の哲学の中心課題の一つでありますが、ここではそこには立ち入らず、ごく普通の常識的な議論をいたしますが、善に価値という概念が伴うのは、善には必然的に意志と行為が伴い、そして対象として他者の存在があるからであります。善は理性を超えた人間頭脳活動のより深い層に関係するもので、人格の多くの部分を担っているところといってよいでしょう。
さらに、その先に感性の世界があり、これが美と呼ばれているものに直接関係します。人間の頭脳活動の最も深い部分に関わっているものであります。善という価値観を超えいわば絶対世界を指向するところに美というものの特徴があります。人格陶冶の究極の目標はこの美の感覚を身につけることであると言ってもよいと思います。
https://www.kyoto-u.ac.jp/contentarea/Official/soucho/99.4.9.BC.nyugakusiki.htm
平成11年の挨拶、ということですので、わたしが入学した次の年だったのでしょうか。もう四半世紀よりも前のことになります。この時点で「最近あまり言われなくなりました」として言挙げされていますので、令和の今になってみると、本当に古い表現と言えるのかも知れません。
とはいえ、古代ギリシア哲学というのは、いまだに新しい…というか、そもそもが2000年以上前の話ですから、それが、たかだか20年くらい変化したところで、誤差、と言っても良い、となると、そんなに古びたわけでもなさそうです。
昨今、「科学」が大きくなりすぎて、「真」はおよそ情報として増えて来たのかもしれませんが、「善」とか「美」というものについては、なんだか、遠ざかっているような気がします。
遠ざかるというか…なんでしょう。価値の多様化、という話がでてきてから、善もひとつじゃない、美もひとつじゃない、みたいな話になってきて、「絶対的な」と冠するような表現が難しくなってきた、と言えるのかもしれません。
そんな頼りない「善」とか「美」という話を、じゃあ、なぜ持ちだしたんだよ!って話になるわけですけれど。
ひとが生きていく、ということの中には、「真実」の反対とも言えるような「嘘」というのがどうしても混ざってくるところがあります。
「嘘」があまり多くない方が良いのでしょうけれど、これも「善悪」の話だけではないのかもしれません。
「善」の反対の「悪」、と簡単に言いたいところですが、最近はこれらのいずれも「絶対的な」というものがみえづらくなってきました。
価値観の多様化もそうですが、世界が拡がって、いろいろなものが見えるようになってきたから、なのかもしれません。
そして「美」については、もうひとつ、なかなか難しい。
難しいのですが、ひとが生きる、という点においては、とても重要なのだ、という話を聞いたことがあります。
病人が枕元に置いてある花を見て、「ああ、美しい」と感じられるなら、まだ生きる気力がある、と、そういう事を語ってくださった方がありました。
日本の美意識というのは、とても不思議なものがあります。「わびさび」と言いますが、みすぼらしいような、くたびれたような、そんな、一見すると「美」からは遠いのではないか、と思われるような有様に「美」を見出すことが出来た、ということは、日本人が誇ってよいことなのかもしれません。
美しいからって、だからどうやねん!って言いたくなります。
そういえば、ギリシアの時代、裁判にかけられた女性が、有罪…となる直前に、弁護担当の方が、その女性の服を剥いで、すっぱだかにした、という話が西洋絵画にもなっているのだそうです。

『アレオパゴス会議の前でのフリュネ(Phryné devant l'Areopage)』(1861年)
判決が不利になるかと見えた時、ヒュペレイデスが裁判官達の同情を得ようとフリュネの衣服を脱がせ、胸元を顕わにした。彼女の美しさが、神秘的な恐れとともに裁判官達の胸を打ち、彼らは「アプロディーテーの女預言者であり神官」に有罪の判決を下すことができなかった。彼らは、フリュネを可哀想に思い、無罪を言い渡したのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D
うーん。紀元前の裁判ですから、良いのでしょうか?
そういう伝説がいまだに残っているあたり、とても例外的な事象であったのでしょう。
ギリシア的な思想で言うなら、「真善美」は連れだってあらわれるものだったのかもしれません。ですので、美しいということは、それだけで善いことだったのでしょうか。
(罪作りなくらいの美しさ、という表現もありますよねえ…いろいろと奥深そうです…)
ながい人生を送るにあたって「美」というものが、わたしたちの生活や心を支えてくれている、ということが、けっこう大きいのかもしれません。













