等価交換ということばに潜む罠

『鋼の錬金術師』ってマンガ、ご存じでしょうか。たしかアニメで放送もされたし、実写版の映画化もされたので、一部では有名なのかなあ…と思って、探してみたら、アニメ放送が2003年の話でした。もう20年も前の作品になっていたんですね!

2017年からリバイバル連載をされているそうで、こちらで認知度が上がっている、のかもしれませんが。

このマンガの世界では「錬金術」っていうのがあって、これを上手いこと使うと、わりとどんなものでも作れてしまう、という描写がされています。ただし、何かを作る、あるいは得るためには「対価」が必要、ということで、しばしば「等価交換」という表現が用いられます。いったい何が、なにと「等価」なのか、っていうのは、この世界観の中で、とても興味深いところがありましたので、ぜひ全編を通して読んでいただけたら、と思います。ちょっとスプラッターな絵もありますが、それでも、本当にいろいろ考えるきっかけをくださった、わたしの好きなマンガのひとつです。

ところで、「等価交換」が錬金術の基本になっている世界観ですから、しばしば主人公氏は「等価交換だ!」って叫ぶわけです。格好いい。

で、うっかりそれを日常に持ち込んで、マネをするわけです。「等価交換だ!」って。…だれが?いや、わたしのことです。お恥ずかしながら。
ちょっとミーハーな気分になって、日常の中で「等価交換」って言葉を使い始めた、わけなんですが。

なんだかちょっと変な感じがしてくるわけです。

等価、って言って良いの?って。

そもそも生まれてからしばらく、ヒトは周辺の大人から、ある種の贈与として、庇護されたりするわけです。これは何かとの「等価交換」だと呼べるものがあるのでしょうか?

あるいは、天の恵み、というのがあります。天水…乾いている時の慈雨だって、あるいは、日々の太陽の光だって、これを「等価交換」と言えるほどの対価を、わたしたちは、払っているでしょうか?どれだけのものを、交換に差し出すべきなんでしょうか、そもそも、誰に差し出したら良いのでしょうか?

文化人類学の研究では「贈与」を行うことで、その人のステータスが上がる、という話があります。贈与に対して、十分な返礼ができないと、贈与したひとに「従属」するような立場になるのだとか。

このあたりの話を先日、東京大学の先生方が数理モデルとして議論なさった結果として、論文を出しておられたそうです。

東大、贈与の相互作用によって様々な社会構造が組織されうることを理論的に解明

https://release.nikkei.co.jp/attach/677943/02_202409051439.pdf より画像をお借りしました。

ひとが生きることには、成長した動植物を加工し、食事として摂取することが必須だったりしますが、この動物はやはりどこかで植物を必要とします。植物は、太陽の光と水を必要とします。これは、ひとが動植物に「与える」ことができるもの、ではなさそうです。

…ということを考えた時、「等価交換」っていうのは、にんげんの作り出した、ひととひととのルールの中に見え隠れする幻想、ではないか、と思い至りました。

もちろん、人間社会に生きているわけですから、そのようなルールもとても大事ではあります。

が、どうやら、厳密に理性的なルール、というものの他に、生き物としての在り方のルール、っていうのがある、のかもしれない、と思っています。等価交換、って言ってるそれは、決して等価ではなさそうで、等価ではなさそう、っていうことを認識することで変わってくるものも、あるように思います。