続カウンセリングはなぜ効くのか
昨日、カウンセリングがなぜ効くのか、ということについて、わりと長々と書いてきました。
生身のひと(カウンセラー)が、あなたを「かけがえのない一人」として尊重してくれること。真摯に耳を傾けてくれて「その症状は、他の誰にもない、個有のものである」と認めてくれること。そして同時に「同じ苦しみを抱えていた人がいる、あなたは孤独ではない」というメッセージが、カウンセリングのセッションを通じて伝わってくることが大きいのだ、という話をしました。
これで、ある程度、カウンセリングという枠組みが有効な理由を説明できたのではないか、と思います。が、東山先生がおっしゃった「若いうちは熱心に話を聞いていると、クライアントさんが良くなっていく」ということについて、つまり、若手の熱意あるカウンセラーの面談が効果的であるのはなぜか、という部分をまだ、書いていませんでした。
カウンセリング、というのは、「カウンシル」という言葉からやって来ています。カウンシルというのは、「会議」という意味…の単語が、同じ発音なのですが、ここではそのカウンシルではなくて、「助言・忠告する」という意味の動詞の方です。わたしも勘違いしていましたが、綴りが違いました。カウンシルが、「助言・忠告する」ですから、その名詞型になった「カウンセリング」は「助言・忠告すること」という日本語に訳することができます。一般的には、何らかの形で助言する人のことを(心理だけの話に限らず)カウンセラーという名前で呼ぶわけです。
じゃあ、話だけを聞いて、「何もしない(河合隼雄氏の表現)」人がなぜ「カウンセラー」と呼ばれるのでしょうか?
これには、来談者中心療法を提唱した、カール・ロジャースの影響があったのではないかと思われます。東山紘久先生は、ロジャースをもうひとりのお師匠さんとして仰ぎ、ロジャーズ研究所に留学されて訓練を受けておられます。当時の心理カウンセリングの一大勢力がここにあったのだと思います。
来談者中心療法は、「クライエント(来談者)が自らの成長や解決策を持っており、専門家の指導を受けることでそれを引き出すことができる」という信念に基づいています。ロジャーズは、人間は自己実現の本能を持ち、成長を遂げようとする傾向があると考えました。来談者中心療法では、専門家はクライエントの経験を理解し、尊重し、受け入れることが重要視されます。
こういう思想に基づいた実践として、クライアントの言葉を傾聴していたところから、日本のカウンセリングは「話を聴く」というのが一番主流になっているのかもしれません。
ところで、理論は異なりますが、行動分析学という心理学の領域があります。
以前もブログでご紹介しました。
この理論をもとに実践をすると、ひとは無意識のうちに操作されることがある、という怖い話があります。行動分析の講義をやっていたとある大学の教授が、ある年にその理論や具体的な方法を説明したところ、イタズラ好きな学生たちが、この教授に行動分析の手法を用いたらどうなるのだろう、と考えて、実行してしまいました。
それは「教壇の上で右に寄るほどに、講義を熱心に聞き、左に寄るほどに居眠りしたり、興味なさそうな顔をする」というものでした。
微細な「報酬」とも言えますが、気づいた時には、その教授は教壇の右端に立って講義をするようになっていたのだそうです。
そこまであからさまではないのでしょうし、意識もしていないのだろうと思いますが、熱意のあるカウンセラーは、おそらく、クライアントさんの持ち込む話題に一喜一憂するのでしょう。そして、目指す方向に近づく言動が増えるほどに、熱心に耳を傾けるでしょうし、思わしくない方向に進む時には、すこし寂しそうな、あるいは悲しそうな顔をされることでしょう。そういう表情や、熱意の方向性を、無意識のうちに感知したクライアントさんは、無意識のうちに、なるべく「良い」話題を持ってくるようになります。
なるべく「良い」話題を持ってくるようになると、だんだん、実際の生活も「良い」方向に進むのかもしれません。
未熟であればあるほど、カウンセラーの期待や失望は面談のたびに伝わるでしょうから、何をこのカウンセラーが期待しているか、何に失望するか、はクライアントさんの中に、じわじわと染みこむのだと思います。
そして、だんだん、カウンセラーが喜んでくれる話題を持ち込むようになる…と、元気になってゆく…という構造が、ここにあるのかも知れません。
なので、中堅どころになってきて、思わしくない方向に進むクライアントさんにも「まあ、そういうこともあるよね」と、動じなくなったカウンセラーの相づちには、すでになんの期待も、失望もにじみ出なくなって来ているでしょうから、本当に「ただ話を聞いている」という姿勢になりかねません。中堅のカウンセラーが停滞する、というのはこういう事を指しているのではないだろうか、と思います。
ではどうするのか?というと、ここからは「心の理論」が必要になるのだ、というのが東山先生がおっしゃったことだと思います。
たとえば、ユング的な理論によると、カウンセリングとは、錬金術的な変化をするものなのだ、ということが描かれています。あるいは「死と再生」の物語がここに入ってくることもあります。錬金術にしても、死と再生の物語にしても、そこをくぐり抜けるのは並大抵のことではありません。だからこそ、カウンセラーという、伴走者が必要なわけです。中堅以降のカウンセラーとは、そのような「大変な道のり」を伴走してくれる人なわけですが、伴走できる理由は、その人が何度もそこを経験してきているから、ということになります。
ある時は先導者として道を指し示し、ある時は伴走者として、クライアントさんを励まし、先の見通しを伝えたり、時には叱咤激励したりする、そして、とことん、クライアントさんが、その困難を通り抜けることができる、と信じ続ける人こそが、カウンセラーなのだ、とわたしはそのように思っています。