聞く人の身になってみる
もう20年くらい前の話になりますが、にしむらにも、駆け出しの頃がありました。
当時、「だいがくびょういん」というところで研修を受けていたのでした。
何からなにまで、本当に今のわたしの状況とは違っていたのでした。
その後、大学院生をやっている時に、とある尊敬する方から「なに?あのにしむらが大学病院に居る?それは何かの間違いではないのか?」というコメントをいただいた…と伝え聞いております。やっぱり何かの間違いに近いものだったよなあ…と今でも思います。
まあ、わたしの大学院生時代の話はともかくとして、その前。
後期研修医とか、修練医とか、そんな呼び名がついていた、駆け出しの頃の話でした。
教授回診、という一大イベントが、毎週開催されていたのでした。
大学病院の、教授回診、となると、本当にこれは大きな。行列が出来て…という絵面になります。
そんな回診の際、受け持ち患者のことを、教授に向けて説明せねばなりません。

「だれだれさん、女性(…とは言いません。産婦人科でしたので、患者さんはみな女性でした)なん歳、なんちゃらの病気で、ほにゃほにゃの治療中。懸念点は云々かんぬん」みたいなことを報告するわけですが、この情報伝達の時に「えええ」とか「あの〜」とか、そういう間投詞を差しはさむと、教授に厳しく指導されたのでした。
「時間の無駄だ」というのが、彼の主張でした。
ですので、間違いが起こらないように、原稿を作って、それを読み上げるのが習わしになっていました。
そういう情報伝達の形も、ある…。
…の、だろうと思います。
が。事前に準備した原稿を読み上げるような、そんな情報のやりとりを、「コミュニケーション」と呼べるかどうか、というのは、また、別の話なのかもしれません。
言いよどむことがあったり、間投詞が差しはさまれたりすることがあったり。
あるいは、言い間違える、言い直す。
「いまここ」で発生している最先端のことば、というのは、そのような「ノイズ」を含んだものであるわけです。
逆に、その時に言いよどむことが無い物語であれば、それはある種の「演劇」に類するなにものか、なのだろうと思います。
つまり、「セリフ」が決まっていて、話の筋が定まっている。
とはいえ、それでも、そのセリフ自体を、ちゃんと届けねばなりません。
観客である、誰かしらにそれを届ける、というのが、滑舌だったりするわけです。
そこから幾星霜。
数年前に学位を頂戴するのに、その審査会に出た時に。
習い覚えた「原稿を読み上げる」をしたのですが、これが酷評されました。いわく、目があわない(原稿を読んでいるので…)。いわく、聴衆の反応に対応していない(原稿を読んでいるので…)。「最低のプレゼンテーションでした」と講評されてしまいました。
文化が変わったのね…と思った次第でした。
うーん。書いてみてちょっと違和感が。酷評された先生は、別の分野の先生でいらっしゃいました。
つまり、分野ごとに多少なり、文化が違う、というところが正解なのかもしれません。
ありがたい事に学位そのものは認定していただきましたが、聞いてくださる方に向けた言葉を、どう選んでいくか、ということは、なかなか難しいのだよなあ…と思った次第です。
本当は、普段使いの言葉にして、ちゃんと、それが血肉になった言葉として出てくる、ということを期待されたのでしょう。うーん。専門用語が難しすぎて、噛みそうだったんですよねえ…。と舞台裏を書いてしまいますが、これも、聞き手のことを考えた言葉ではなかったのだろう…と今になったら思います。
聞き手のことを考えて、言葉を選ぶ、っていうのは、余裕が無いと難しいのでしょう。
ちゃんと伝えるべきことが、自分の内側にあって、それを表現する言葉の持ち合わせもあって、そして、伝える相手の様子もしっかり把握していて…
うん。とても大変ですよねえ。
言葉を使う、っていうのは、その辺まで気にすることなのかもしれないなあ、と思います。








