言葉のこと

新約聖書の、ヨハネによる福音書の冒頭には「はじめに言葉があった」と書いてあるのだそうです。
「言葉」と訳すのが正しいのか、それとも「秩序」ないしは「調和」などと訳すのが正しいのか、あたりが議論されるところのようですけれど…。

まあ、世の中、だいぶ言葉によって成立しているところがあります。わたしのこのブログも、言葉をつなぎ合わせることが中心になっていますし。

ところで、以前もちらっと書いたことがありますが、ひとつの言葉をとってみても、その言葉から思い描かれる感じというのは、ひとそれぞれ異なります。

昔、精神科医の師匠が、ご自身が見た夢のことを話してくれたことがありました。

夢の中では、ほとんどの映像が白黒で、その中に、ひとつ、赤い帽子があったのだけれど、その帽子が、世界中のどの赤よりも「あかあかと」赤かったのです。

とはいえ、その赤さが極まっている、という表現は分かっても、実際のその赤の極まり具合までは、なかなか、伝わりません。

色について、わたしたちが知っていることは、色指標を並べて、「今見ているこの色は、この指標と同じ色だよねえ?」と確認することだけです。場合によって、色弱の方がおられると、「これとこれは、指標としては別の色設定だけれど、わたしには同じに見える」ということもまれはあるかも知れませんけれど…。

「じつは、隣の人の頭の中では、あなたが見ている色指標とは色味が2つほどズレて見えているのだ」という話が、もしもあったとして、それに気づくことはできるのでしょうか?

2つ色味がズレていても、「赤」と呼べば赤を指さします。ひょっとするとその赤が朱色に見えている、なんてことがあるのかもしれませんが、それは弁別の問題にはなりません。朱色は、明るい橙に見えているかもしれませんが、ここも同じように弁別の問題は出ませんので、違和感を覚えることはありません。どころか、まさか自分が見ている赤は「本当は朱色と呼ぶのだ」などということも夢にも思わないでしょう。

この、個人の認知における不可知性を話題にしていたときに「赤のあかさ」という表現をしていたことがあります。「赤のあかさ」は、共有することができない、という話ですが、ちょっと考えると本当に頭の中がこんがらがりそうです。

言葉、というのは、外的な指標でしかなくて、その言葉を自分自身の中でどのように受けとめて、どう味わうか、という点については、本当に個々人に委ねられているわけです。

じゃあ、言葉によって導かれた時に、それは、話し手の意図とは全然ちがった、いわば勘違いした場所にたどり着いているかもしれないのだろうか?って考えると、その疑惑を否定しようがありません。「理解というものは根本的に誤解である」と言った方もあったそうですが、まさに誤解ばかりなのかもしれません。

ある意味で、言葉というのは、ある種の道案内表示板くらいの話でしかないわけで、その言葉を紡いだ人が見た世界、というのは、その道案内をたよりにしつつ、自分自身でたどり着かねばならないわけです。

ボルダリング、という、壁面にとりつけられた突起を手がかりにして、壁を登る競技がありますが、まさに、言葉というのは、この壁に取り付けられた突起のようなものであり、わたしたちは、言葉という突起を頼りにしつつ、壁面を登ってゆかねばならないのです。

学問というものは、一見すると、歴史の中で積み重なっているように見えるわけです。これは、ボルダリングの突起が増えてきた、という話になるのかもしれません。突起が増えれば、壁を登る時の手がかり、足がかりの選択肢も増えます。場合によっては、壁を登るのが楽になるのかもしれません。

実践の中にこそ、言葉の意味がある、とそのように言いたくなるのは、わたしが臨床に居るから、かもしれません。

臨床のことばは、「いま、ここ」だけで使われることもありますので、ことばの賞味期限が短くなったり、あるいは射程が短くなったりすることもあります。

が、その言葉が、しっかりした重みを発揮するには、自分自身の中のたしかなものに接している必要があるのだと思います。

わたしが小学校の頃の思い出です。

国語の時間に「教科書にある文章を段落わけして、それぞれの段落にタイトルをつけましょう」という課題がありました。今でも覚えているあたり、かなり根に持っているわけで……にしむら、執念深いなあ…。

話題はガラスの話でした。強化ガラスなど、ガラスを割れにくくする、というような話が出てきていました。なので「かたいガラス」って表現はどうでしょう?と提案したのだったと思います。

モース硬度で言うなら、ガラスはおよそ5.5から7だそうです。(https://glass-kouji.com/hardness/) 一番硬いとされているダイヤモンドを10としますから、ガラスは硬い。うん。間違いないわけです。

ところが、小学生にとっては、ガラスっていうのは、「割れる」という点において「壊れやすい」ものの代表的なアイコンでもありました。割れる、ってことは「頑丈さに欠ける」わけです。小学生の中では「かたい、ってことは、頑丈ってことだろ?」って理解があったのではないか、と想像しています。「かたいガラス」という表現を、クラスの中でずいぶんと否定されました。今でも覚えているあたり、いまだに消化しきれていない記憶として、わたしの中にあります。

形容詞は、名詞を修飾するわけですが、これも実は、2つの意味合いがあります。

ひとつは名詞が示す全ての性質を言い表す場合。
もうひとつは、通常はそうではない名詞の、特殊な状況を言い表す場合。

たとえば「楽しい訓練」という文節を持ち出してみると「訓練」が名詞です。訓練一般がすべて「楽しい」という表現にもなり得ますが、一般的には「訓練」とはつらくてしんどいものです。とはいえ、全ての課題がそうでもないでしょう。一部に楽しめるものがあるかもしれません。そういう限定として「楽しい訓練」という表現が成立することだってあります。

健康教室で花粉症の話をするにあたり「眠くならない花粉症の薬」というお題目を準備しました。これが、いろいろと面倒くさいところでひっかかったわけです。

健康教室の案内チラシ原稿…。

花粉症の薬は眠くなるものがあります。抗ヒスタミン薬は、睡眠導入剤の替わりに用いられることもあるくらい、眠気が出てきます。新しい抗ヒスタミン薬は、そのあたりをずいぶんと工夫して、眠くなりづらいものにはなりましたが、完全に眠くならないわけではありませんし、使われる方の体質や体調によっても異なります。

漢方薬で花粉症の時に用いる処方は、そのような眠くなる成分が含まれているものではありませんので、それを指して「眠くならない」って書いたのですが、これでは誤認をまねく懸念がある、と言われました。全ての人が、どのような状況であってもそうである、という証明がなされていないなら、断言してはいけない…のだそうです。

医療の業界は、広告の表示内容に厳しい制限がありますので、仕方ないことも多いのですが、なかなか言葉の取り扱いって難しいものだなあ、と天を仰ぎつつ、小学校の思い出をありありと思い出してしまったのでした。

健康教室についてはネット予約からお申し込みくださいませ。2025年3月22日に開催予定です。