課題の分離と他者への敬意
以前も書いたことなのですけれど、「課題の分離」と呼ばれる前提を、わたしは精神科医の師匠にかなりきっちりと教えて頂きました。
まあ、うっかり「課題の分離」ができていないような相談事を持ち込んだときに、本当に見捨てられるか、と思うくらいに師匠が他人行儀なモードに切り替わってしまわれて、怖い思いをしましたので、骨身にしみた、という、あまり褒められないような経緯でしたが。
その後、臨床の出来事に触れるたび、あるいは、関連するような話題を聞くたび、わたしの中で「課題の分離」という前提がどんどん大きくなって来たのでした。
課題を分離するのは、他者を尊重する、という姿勢につながります。
「わたしには関係のないこと」という形で切り離す…のも、ひょっとすると、「課題の分離」と呼べるのかもしれませんが、本来、分離を強調しなければならないのは、その部分についつい、手を出しがちであるからです。
手を出す、というのは、程度の差こそあれ「かわりにわたしがその課題を解決する」という態度になるわけですが、これは「あなたにそれを任せておけないから」と判断をしたことの意思表明にもなります。いわば「あなたを信頼していない」という、そういう意味です。
あるいは、「あなたの自由意志を尊重していない」という意味にもなりそうです。
逆に言えば、「課題の分離」というテーマの中には、相手がその課題を解決するだけの力を持っている、と信頼することが必要になり、相手の自由意志を尊重する、という意味にもつながります。
他者を尊重することをきっちりと実践するなら、課題はおのずと分離されるべきものであることがわかるのです。
とはいえ、この「課題の分離」という思想や姿勢は、必ずしも一般的なものではなさそうです。だからこそ、野田俊作氏が、親業(パセージ)のプログラムで、かなり早い段階のセッションに入れておられるのだろうと思います。
ところで、「放置・放任」の形でこの「課題の分離」をお使いになる方が、ときどきいらっしゃるのだ、という話を聞いたことがあります。ツイッターだったでしょうか…。学校の中で困った行動を取るお子さんがいらっしゃって、その親御さんに相談しに言ったところ「わたしとこの子は別人で、課題を分離していますので、わたしは知りません」というような話をされてしまった、のだとか。
親子とはいえ、別の人格である、ということは間違いないですし、親子がそれぞれの課題をきっちり分離している、というのは、論理的には正しい態度になりそうですが…。
アドラー心理学を尊重された方がこれをおっしゃったなら、それに対する反論としては「共同体感覚」という概念を持ち出すことができるかもしれません(そもそもが、あまりそういう議論にはまり込まないように関係を作っていくことが大事ではあるのですけれど)。
つまり、わたしたちは、学校という場を共有する、共同体であり、その共同体の維持や「よい共同体」であり続けるように貢献するべきである、ということです(ただし、この共同体感覚について、野田氏は晩年、アドラー心理学の内側だけでは、論理的に成立させられないのだ、と書き残しておられます。もっと文化的なバックグラウンドにその根拠を求めることになりそうで、ひとつは宗教というものが大きな役割りを担っているようなことを書いておられました)。
ちょっと脱線しましたが、他者の尊重や敬意が、「課題の分離」の大事な部分である、とわたしは考えている、って話でした。
自分の子どもも「他者」ですから、そこへの敬意があれば、子どもの言うことに耳を傾ける、という姿勢につながるわけです。
そして、学校の先生も「他者」ですから、そこへの敬意があれば、先生がおっしゃるお困りごとを、どうしたら良いのか、ともに考える姿勢になってくるようにも思います。
とはいえ。
だからといって、子どもの行動を即座に矯正してしまう、ということが、共同体の維持のために良い、というわけでもなさそうです。問題行動をとるお子さんには、それなりの事情があるのでしょうし、その事情を聞き取ることで、解決への道筋が見えてくれば、とても良いのですが。
アドラー心理学は、親業のプログラムが日本で普及したことから、学校教育とか、子どもの養育の話題に用いられることが多かったようです。
ですが、その智恵は、教育の場面だけに限定されるものではありません。医療の現場でも、とても有用で、かつ大事なことを伝えてくれる、と思っています。
他者への敬意と尊重が、お互いにある場所では、対話が成立します。
たとえ、お互いの主義主張が違っていても、というよりは、主義主張が違い、衝突しかねない時こそ、他者への敬意と尊重が重要になるのだ、と思います。
そして、「わたしの意見はあなたのものとは違うけれど、あなたに関わることについては、あなたの意見と判断を尊重し、あなたの決定を受け入れる」という姿勢が、対話を成立させるのだろうと思いますし、そのような対話が成立する臨床を、大事にしてゆきたいと思っております。