象の話ふたつ

とつぜん象の話です。いきなりどうしたの?って心配になりそうですが…まあにしむらの気まぐれはいつものことです。良いことにしてください。

「ぞうは問屋がおろさない!」などという言葉遊びもありました。さすがに問屋で象の取り扱いがあったら大変ですが(ちがう)。

今日の話題の一つ目は「サーカスの象」という逸話のことです。

わたしもずいぶん昔、聞いた覚えがあります。具体的には大学生のころ。どうして覚えているか、というと、ちょうどその頃、変なノートの取り方をしていたので、何かの機会に紹介したのでした。下手っぴな象の絵を描いていたのを覚えています。サーカスの象の具体的な話はリンク先をご参照ください。

小さい頃から、鎖に繋がれていると、象は「この鎖はどうしたって、自分の力では振りほどけないのだ」と「学習」するのだ、という話です。

学習してから、象も成長して、大きく、力も強くなっています。なので、この状態で象が暴れたら鎖は切れてしまいそうです。もっとしっかりした鎖に更新してゆかなければ、つなぎ止められないはず、なのですが、象が諦めて、振りほどくことを試みもしなくなって繋がれたままでいる、のだそうです。

「学習性無力感」なんていう心理学的な表現をされています。こうした学習ができるほどに象が賢い、というのもポイントなのだろうと思います。

実際に、サーカスの象が、そのように細い鎖で繋がれているのかどうか、というのはさて措いて、似たような形の無力感をもって諦めてしまっていること、というのが、人生の中では結構あるのかもしれません。

もちろん、力が弱い時代から、ずーっと抗い続けている、という人生は、それはそれで本当に大変なことですし、場合によっては身の危険がありますから、力を蓄えるまでの間、一時的に避難する、あるいは、いったん衝突を回避する、というのは、自分を守る上でも大事な方針です。猪突猛進ではなくて、時と場合によっては戦略的退却を採用していただきたいところです。

そういう幼少期の修羅場から、ずいぶんと時間が経った時に、改めて、あちらとこちらの、客観的な関係性を見直す、ということができると良いのかなあ、なんてことを思います。

ぜいたくなことを言うと、物理的な力、以外の形で、こうした「とらわれ」から離れることができたら、本当に良いのですが。

もうひとつ、象の逸話で有名?なものがあります。インド発祥とされていますが、「群盲象を評す」とか、「群盲象を撫でる」などという表現とともに、絵が残っています。

世界的に風刺画の題材になったようですが、日本でも葛飾北斎などが画題として絵を描いていました。

画像は https://blog.goo.ne.jp/caneteregardepas/e/5e88f87fcfc354e458d6dbb4208cd2c5 からお借りしました。

視覚障害者をおとしめるような話ではなくて、大きな存在の、今までわたしたちが獲得していなかった概念というものに接した時、ひとびとはあたかも、このような形で、自分が触れた部分のみを正解だと思いがちである、という、そのような意味のたとえ話です。

漢方とはなにか?なんていうことを議論しているところは、まったくこういうことになっているのではないだろうか、なんて思うことがあります。