財布をわける

昨年から、障害支援のための文具を販売している、という会社「おめめどう」の代表ハルヤンネさんの文章を読むようになりました。
先日も、ブログでも「選ぶ」ということについて、ハルヤンネさんの文章をご紹介しました。

選んだ道を後悔しないために

以前も「一人反省会」というような話をして、自分自身の選択について「その時の最善だったのだ」という話を書きました。 最近、ご縁があって、障害支援のための文具を販売…

選ぶ、ということは、「選ばなかった方を諦める」ということ。
これも選択を積み重ね、繰り返していく中で、自分自身に引き受けてゆく話だ、というようなことを書いておられます。

その他にもハルヤンネさん、いろいろと大事なことを書いておられるのですが、わたしに突き刺さったのは「財布をわける」という内容でした。

たとえば

わける・わけるで快適に(2021年7月3日のメルマガ)

【母子分離の重要性】をこの時期頼まれたのは、ご縁だったのかなあと感じます。

でも、30歳前でこれって遅いってことですよ。10年前の20歳前に、彼はしてほしかったことなのです。それができなかったのは「母子分離」ができていなかったからです。四年前になるのかなあ、「母子分離不全」のことを書きました。「わける・わける」という題で。

それが「時間をわける、空間をわける、財布をわける、言葉をわける、脳みそを分ける、関係をわける、責任をわける」他にもあるでしょうが、こんなところ。でも、10年前は、それができていかなかったのです。今は、それらがわかれているので、離れていても心配がないのです。

時間は、カレンダー・スケジュール(受信と発信で心を支える)。空間は、構造化(自分の場所、カームダウン、兼用をしない)、財布は、生活費(お小遣い)、言葉は、コミュニケーション(先回りしない、代弁をしない)、脳みそ(エスパーをしない、同化しない)、関係(直接対峙、邪魔しない)、責任(後始末しない)というようなことです。

ハルヤンネさんは、ご自身と、自閉症の息子さんとの関係の中にある要素として、この話題を出してきておられますが、こうした「わけてゆくこと」は決して障害を持ったひとたちの支援の話だけではなくて、基本的に個人を尊重し、そのひとのあり方を大事にするために、本質的な部分であるように感じられます。

そして、家族という関係の中で、親子という関係の中で、ついつい、その部分に助言という名の口出しをしたくなる…ということが発生する、というのも、どこの家族にも起こりそうな出来事です。

無駄遣いをする子ども(あるいは老親)の行動を止めたい、と、イライラするのは、アドラー心理学で考えるなら、イライラの感情を道具として使うから、になります。
相手の行動を自分がコントロールしたい、という欲求を実現させるための道具として持ち出している、と考えるわけです。

でも、ちょっと待ってください。

子ども(あるいは老親)の「無駄遣い」と呼んでいる、そのお金について。
それが、子ども(あるいは老親)本人の「自由に使えるお金」であるなら、どうして、その行動を、親(あるいは子ども)が制限しなければならないのでしょうか?
「同じようなものをまた買ってきて」「まだ前のそれが使えるでしょうに」などとついつい、口にしたりしていませんか?
ご本人にしかわからない、新しいものを購入する理由がある、とするならば、制限された、という経験には、本人の意志が尊重されなかった、とか、本人の自由な行動を邪魔された、という印象しか残らないのではないでしょうか。

「いや、それは、相手のためを思って…」
と、おっしゃるかも知れません。「相手のためを思って」おられるのは事実だとしても、それはそれ。課題は分離せねばなりません。
いったん、分離した上で、もう一度、ギリギリのところで、共通の課題にできるかどうか、は交渉の余地があると思います。とはいえ、主体はあくまでも本人に残すべきなのです。

「そもそも使う金額が大きすぎる…」
とおっしゃるかも知れません。しかし、この大金を使う、という問題については、最初にきっちりと財布をわけて、予算配分をする、ということが出来ていれば解決する話になります。

「お金の使い方が下手なので…」
とおっしゃるかも知れません。これについても、時間的な見通しを立てられるように援助するべきポイントはありますが、誰もが最初から上手にお金を使えるわけではありません。自分自身の裁量で使い続けることで、徐々に上手になっていくわけですから、それを邪魔していては、いつまでも上達しません。

このあたりをくれぐれも上手に支えつつ、財布をわけて頂きたいところですし、わけることで、お互いに心の平穏が実現できるのだと思います。

一方で、そうやってうまくわけられない「財布」というのがあります。

このわけられない「財布」に起こる、収奪の競争と、収奪による資源の枯渇については「共有地の悲劇」あるいは「コモンズの悲劇」として知られています。
蛇足ですが、医療の業界において、保険支払い基金というものが、この「コモンズ」に近いような印象を覚えます。
今すぐに枯渇する、とは考えたくありませんし、どうにか、節度ある形で維持されることを期待してはいるのですが、今後はどんどん厳しくなってきそうです。