身体に出ている心の声

わたしが若い頃に学んできた「ボディートーク」では、こころのあり方が、からだにあらわれる、とそのように考えています。
(ボディートークについては、記事をまとめております。こちらをご覧くださいませ)

その証拠に、「こころのことについての表現なのに、身体の表現が入る」という言葉が日本語にはわりとたくさんあります。

「腹に据えかねる」とか「溜飲を下げる」なんていう言葉もそうですし、借金をして「首がまわらない」などというのも、心の状態が身体に反映されていて、その身体の表現として心を言っているわけです。

こうした表現のことを「心の体表現語」と、ボディートークの師匠である増田明氏は、名付けていました。

そして、これらの表現で用いられる現象が、どうしてその場所に発生するのか?というのを真面目に議論していたのでした。

「肩の荷が重い」なんていうのも、そういう表現の1つですし、「薄氷を踏む思いをした」というのも、足にそのような緊張が残っていたりします。

進化のどこかで、ヒトは脳の中でシミュレーションをすることを覚えたのだそうですが、こうした心の変化は、シミュレーションの時の緊張になって身体に多少なり、出てくるということのようです。慢性化すれば、やはり、結構なコリになることもあります。

興味深いのは、緊張の仕方が、イメージに沿っているということで、肩の荷が重い、という状況ひとつ取っても、ひとによって、荷物の背負い方と、それによる緊張が違う、ということが結構あります。

なので、薄氷を踏む思いをした方と、綱渡りの心持ちだった方は、どちらも、足先に緊張があるものの、それぞれ、緊張する場所が違うわけです。

こうしたコリや緊張を診ることができれば、心の状態を多少なり、判断することができます。

「触っているだけなのに、どうして分かるんですか!?」ってびっくりされることもしばしばあるのですが、そのタネ明かしをすると、身体の各所の緊張を診て、その緊張をもたらしたイメージを判定できるから、です。

漢方的な身体の見方も、それはそれで役に立ちますから、それらを併用しつつ、いま必要な言葉をどのように紡ぎ出していくか、というのが、わたしの仕事になります。

これには、それなりの人生経験が必要になりました。
わたしがボディートークの研修を受けていたころからすると、かれこれ20年が経過しましたので…。当時は「にしむら君は、もう少し人生経験が必用だねえ」なんて言われていたのですが。