選択肢は自分にある

水島広子氏の『怖れを手放す』という本を、以前、お世話になった方にご紹介いただいて、読んだことがあります。

アティテューディナル・ヒーリング、っていうグループワークの実践とその解説の本でした。その中には「心の平和の選択を実践する」という表現があります。

もともとアティテューディナル・ヒーリング、って英語っぽいですから、この「心の閉鎖の選択を…」というくだりも、どうにかこうにかして、英語みたいな言葉から翻訳したのでしょう。日本語としては、ずいぶんわかりづらい書き方がしてあるなあ、と思いました。

アティテューディナル・ヒーリング(AHと省略されています)のガイドライン自体もWebで公開されていますので、そのまま拝見することにしますと、9番目の項目に、

平和と葛藤のどちらを選ぶか、怖れにとらわれるか手放すかは、常に自分で選択 できることをいつも心に留めておきます。

と書いてあります。これもまた、微妙にわかりづらい表現になっています。

ただし、この本を読み進めていると、表現としては、こうとしか言いようがなかった、ということがわかります。

じゃあ、心の平和の選択ってなにか、っていうと、自分自身が、怒っているのか、それとも平穏でいるのか、あるいは悲しんでいるのか、幸せな心持ちでいるのか、というのは、その心のあり方を「自分たちは、常に、選んでいるのだ」という思想があるのだそうです。

いや、そんなこと言ったって、たとえば、「やっぱり税金が高いことには、怒り続けなきゃいけないじゃないですか」とか、「足を踏まれたら、『踏んだな!』って腹が立つでしょ」とか、って反論が来そうです。

そうなんです。でも、その時腹が立ったから、といって、「腹を立て続ける」という人生と、「その怒りを横において、別のことを考えて心を落ち着かせる」という人生が、「選択できる」、っていう考えなんです。

もちろん、残念なこと、悲しいこともありますが、その悲しいことに気持ちを持っていかれたまま、を続けるのか、それとも、続けることをやめるのか、の、選択権は自分にある、ということです。逆に言うと、「いつまでもめそめそしていないで、さあ、泣き止んで」って周りの人が言うこともこのグループの中では禁じられています。なんなら、クリネックス(ティッシュ)を渡すことすら、禁じられています。涙を拭かずに流し続けることも、本人の選択に委ねられている、という判断です。

心の平和…あるいは、平和じゃない状態…というものを、常に、どちらを自分自身が選ぶか、ということが、自分自身に任せられていて、かつ、それを選ぶ権利と義務が自分自身にある、という認識をする(どちらを選んでも「良い」という環境そのものも、とても大事ですし、そういう環境を作っていることがこのグループワークの効果が発揮される場所だということなのでしょう)。

そのように、自分の人生には選択の余地がある、という認識があると、それだけで、人生が楽になる、こともあります。

選択肢として、思いがけないものも、実は世界には転がっていたりしますから、見聞を拡げることで、人生が楽になることだって、あるわけです。

そういう意味では、いろいろな方に出会える、ということは、見聞を拡げる意味ではとても大事だったのかもしれない、と、わたしの半生を振り返って、そのように思います。