頭の上の数字

突然ですけれど、インディアンポーカーってご存知ですか?
わたしは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のマンガで、登場人物がゲームしているのを読んだ覚えがあります。トランプのカードを1枚ずつ引いて、自分ではその数字をみないまま、おでこに掲げます。
で、自分以外のゲーム参加者のカードと、それから、参加者の顏色を読んで、自分のカードの強さを想像し、お互いにブラフをかけあって、勝負するか、あるいは勝負から降りるか、みたいなことを判断する…というゲームです。
このゲームの、いちばん面白いところは、自分自身の頭の上の数字は見えない、というところにあります。
配られた札がとても強い…のに、周りの反応がそうでもないから、うっかり弱い札だったのじゃないか、と勘違いして、勝負から降りる、という方もあれば、その逆に、どう考えても弱い札を持ったまま、強気の勝負に突っ込んでいく、という方もあります。
マンガでは、主人公の両津氏が、破天荒な判断と、ハッタリで、上手いこと勝ち抜ける…というような話でした。
ひとまず、ハッタリはともかく、なのですが…。
ひとの頭の上に、そのひとの精神年齢が見える、そんなメガネができたら、面白そうだなあ、ってちょっと前から考えています。
お互いに相手の数字(精神年齢)が見えるわけですが、自分のそれは見えない。
そんな世の中になったら、どうでしょうか。
パワハラ上司の上に、たとえば「3」とかって書いてあるわけです。そうか。三歳かあ…。そりゃあ、うん。ワガママ言っても仕方ないよねえ…と、思えるかもしれません。
どこかの、すごくわめき散らす方の上に、「10」って書いてある、と思って、よくよく見たら「10ヶ月」だった、とか。いや、別にそんな見えづらい書き方しなくても良いのですが。
他人の精神年齢が見えて、その年齢が自分の年齢よりもはるかに小さかったら、そりゃ寛容になったり、しませんかねえ?
本当に見えなくても良いのです。どこかで、「あ、この人、三歳だわ」って納得できたら。
なんだか、そういう補助線を引いて、世の中を見ると、ちょっと見え方が変わるのかもしれない、と思います。